ドーナツのたとえ話
少し難しいことを書く。
「同調的圧力にさらされた上で、なおこだわりを保持できるか」 というテーマについてだ。毎日単純作業をしていると、時々書きたくなるのだ。 許して欲しい。
人は誰しもこだわりを持ってるが、その程度はまわりの環境に左右されると、最近気がついた。
ドーナツを例に挙げよう。目の前にミスタードーナツ10個入りの箱があったとする。 そして自分は好きなドーナツを手に入れたい。
好きなドーナツといえば、まあ大抵はチョコファッションだ。 チョコファッションという前提で話を進める。
それからもう一つ。 ドーナツを分け合う人の中で自分は一番立場が下、という前提で話を進めよう。
自分の家であれば、我先にとチョコファッションを確保しにかかるだろう。Dポップがいかにお買い得であろうと、やはりチョコファッションだ。幼いが故のわがままは、たいてい許される。
これが部活のミーティング後であれば、ちょっと難しい。
もちろん上下関係はあるのだが、たかがドーナツ一つで威張るなんてくだらないと思う優しい先輩がいるかもしれないし、その時の自分の実力や調子が先輩を凌駕するものであれば「先輩、僕はチョコファッションが食べたいです」と主張すればいい。
勝ち取れる可能性は大いにある。
しかし、これが会社になってくるとそうはいかない。
下っ端は余り物と相場が決まっている。 そもそも組織の秩序を築くために、ドーナツを買ってきているのに、僕らが我先にと自分の好きなものを取ってしまったら、元も子もないもない。可能性があろうとなかろうと、勝ち取ってはいけないのだ。
できることといえば、自分の嫌いなドーナツが回ってこないように祈ることぐらいだ。
自分のチョコファッションが食べたいという欲求は同じでも、環境によってこれだけの差が出てしまう。ドーナツ軸上に3つの立場を並べると、明らかに社会には出ない方が良さそうだ。チョコファッションもDポップも確実に回ってこないだろう。
けれども、みんな基本的には社会人になる。
なぜか?
それはドーナツを妥協してでも、その環境にいたいと思える理由があるからだ。
欲求を押さえ込んでまで、手にいれたい何かがあるからだ。それは端的に言うと、社会的安定という言葉になる。薄っぺらいし、格好悪いけど、これは一度働いてみないと分からない。
バイトでは考えられない額のお金と福利厚生を得ることができ、とりあえず月から金まで朝ちゃんと起きて会社にいけば、毎月お金が入ってくる。 入社1年目でも住宅ローンが組める。
たとえ自分の好きなドーナツが食べられなくても、ドーナツを食べる家を買えることの方がよっぽど大事だろう。 ドーナツへのこだわりを捨てて、安定した職位を保てるなら、喜んでチョコファッションとオールドファッションを交換するだろう。
そうこうしている内に、もうドーナツのことなど、どうでも良くなってくる。
こだわりを我慢することよりも、こだわりをなくすことの方がよっぽど楽だからだ。
人間というのはとてもよくできていて、自分に都合の悪いことは、忘却したり、書き換えたりすることができてしまう。 そしてそれに気がつかない。
「俺はドーナツだけは誰にも譲らない」と書いてトイレの壁にでも貼っていれば話は別だろうが、普通は自分のこだわりなど忘れてしまう。
さらに周囲がみんな、そんな感じだと、もう何の問題もないように感じる。
実際、何の問題もない。
「いや俺はちゃんとドーナツ一つ選ぶにもこだわりを持ちたいんだ」 と言うには勇気がいるし、バカだと思われる。
お前はドーナツの為に、この恵まれた状況を捨てるのか、と。
そこで冒頭のテーマにもどるのだが、そういった環境においては、”ドーナツにこだわりを持っている”という状態を保持することすら非常に難しいのだ。
ずっと自由人でいたい訳ではない。起業家になって世界を変えてやるなんて、大それたことを思ったこともない。
ただ、自分が違うと思うことは違うと言いたい。 嘘をついている自分にせめて気づける環境にいたい。
そんな小さなこだわりだけは、どうやら持っているらしい。
そして、その小さなこだわりのために、色んな普通じゃない恵まれたことを簡単に捨てれるかというと、自分の場合は余裕でイエス。一点の曇りもなく、イエスだった。
そこまで頭を整理して、自分に嘘がないかを確認するのに1年ちょっとかかったという話なのかもしれない。
そういう意味では、進路選択に関して、ああでもない、こうでもないと言い、あれこれ考え、海外でフラフラして、理想とのギャップを最小限にして入社するというスタイルはある種理想的であるけれど、もったいないなとも思う。
であれば、よくわからないけれどさっさと働いてみて、このモチベーションとこの仕事量でこれだけお金がもらえる世界があるのかということを知って欲しい。
そのお金でもって、自分で生計を立ててみて欲しい。
その上で、なおその自分の理想を貫こうと思うのか。それとも理想をちょっとだけ変形して、その組織の中でも叶えられる形にして、豊かな暮らしを享受しようと思うのか、自分に問うてみて欲しい。
大企業のどこが良くて、何がいけないのか、なんていうのは昔からある議論だし、本を読めばいくらでも書いてある。
なんなら、そこらへんのブログにもいっぱいある。で、実際働いてもだいたいその通りだ。あー、このモヤモヤは言語化するとそういうことなのか~と分かる。
だけど、それはクソだと思って辞める決断をできた人達の意見の集合体でしかなくて、自分がその場にいて、そういう決断をできるとは限らない。
そして大多数の人がなぜ働き続けているのか、ドーナツと引き換えに何を得ているのかを、実感を持って理解するには働くしかない。
本当に賢明な人は、わざわざそんな環境を選ばないし、生活は苦しくても自分に合った環境で伸び伸びと生きる。けれども、あえて“向いていない”恵まれた環境で働いてみて、それを捨てたという経歴を持って、次へ飛び込んでいくことにも、一定の価値はあると思う。
そういった意味で、若さは大きな武器だ。ダサいわがままを、勇気ある挑戦に書き換えられる。だから、一つ年を重ねて、ますます時間の大切さが身にしみるのだ。
そうだ、一つ抜け道を話すのを忘れていた。
あえて人気のなさそうなオールドファッションを選んで、自分で買ってきたチョコをかけて冷やすと、世界でたった一つの上質なチョコファッションを作ることができるのだ。
楽しそうだと思わないか?
Q.E.D.