2つの職場を辞めて見えてきた理想の職場
2年で2回仕事を辞め、海外をフラフラした後に3つ目の職場で働き始めた今、ようやく「こういう感じで生きていけばいいのか」というのが見えてきた。
今が100%理想の環境であるのかどうかは分からないが、間違いなく状況は改善され、正しいレールに乗った感はある。
その感覚を、もう少し細かく分解し、この満足感とも安定感ともつかぬ実感の正体探っていきたい。
ストレスからの開放
「こんなに楽でお金がもらえる仕事はない。全然社会のためになってないけど」
というのが、一つ目の会社で働いていた時に感じていたことであった。
大学の部活のハードさに比べれば肉体的にも精神的にもお話にならないくらい負荷はかかっていなかったし、「まじでスゲエ」と思える人もいない職場だった。
幸い周囲には恵まれ、裁量権がある程度与えられた中で仕事ができたので、そこそこ面白いと感じることも多かったし、少なからずやりがいはあった。
けれども、それは辞めた今だからこそ言えることだとも思っている。
下らなさすぎてほとんど忘れてしまったが、本当に下らないと思うことが結構な頻度で起こり、その事実をやり過ごすための感情の処理と、その事実を共有する場から開放されるための未来の道筋の模索に相当なエネルギーがかかっていたのは間違いない。
業務もあくまで業務、というかほぼルーティン雑務だったので、それ以外の時間で色々と勉強をして自分の付加価値を高めていく必要があり、極めて非効率だった。
そういう意味ではプレッシャーとはまた別の、焦燥感や無力感からくるタイプのストレスにさらされていたといえる。
そこで、得たいスキルを業務として身に付けることができ、今より高い報酬をもらえ、学歴と口先だけでなんとかなるポテンシャル採用をやっている、年功序列でない生産性高めの会社に転職することにした。
そして、下らない人間関係とスキルアップのない仕事が原因で生じていた、大学時代とは全く異なる種類のストレスから開放された。
仕組みからの開放
二つめの会社は、想像していた通り全てがとても合理的だった。
当たり前が当たり前でない会社からやってきた身としては、いちいち新鮮で面白かった。
ただ、人数があまりに多いゆえに、全員にとっての最適解というものは存在せず、あらゆるトレードオフの中でバランスをとっていく必要があった。
そして、これも人数が多いゆえに起こりうる問題だと思うが、自分が個人として認識されていないという実感がすごかった。
そこそこ頑張っている一兵卒。
それが、この採用制度の問題点であり、限界であった。
また、これもポテンシャル採用をやっている以上、仕方のないことだが、競争意識をすごく掻き立てるようなシステムが採用されていた。
「教育ママ」とまでは言わないが、会社が「熱心な塾の先生」くらいの存在ではあったように思う。
それでいてこちらがお金をもらっているのだから、何の文句のつけようもないのだが、今まで「勉強しろ」と言われたことがない身としては、それが少し辛くもあった。
会社として必要な兵隊の量と質が決まっており、そのためにリソースを最大限活用する方法としては全くもって異論はないし、むしろ尊重すべきことであるのだが、自分が一兵卒の立場となったときにやはり幾分かの居心地の悪さを感じることになる。
この時点でようやく気が付いたのだが、「自身の成長」「待遇」「会社の合理性」「実力主義」などのポイントが満たされても、自分が仕組みの中で管理されている状況であれば、何ら意味がない。
それらは全て保証されているわけではなく、会社都合でルールが変更される可能性があるし、パイの数は決まっていて全員がそれを享受できるわけでもない。
「昇給試験」「行きたいプロジェクト」「裁量労働といいながらも…」「研修の成績」などのワードからその様子を想像してみてほしい。
もちろんお金をもらって勉強させてもらっている以上、積極的に辞める理由など一つもない。
それは頭では分かっていた。
けれども、どこまで行っても「主権を握っているのは会社」という構図は解消されない。
それが違和感を生み出す原因となる。
だからといって、裁量権を求めて給料の安いベンチャーに行くというのは最初から選択肢になかった。
会社のビジョンに乗せられて、自身の能力を安売りするというのは好きではないし、個人レベルでそれを回避できたとしても、まわりがそういう空気だと馴染めないと思ったからだ。
そしてそこで頑張っても報われるのは経営者であり、自分ではない。
それがどうしても最初に見えてしまう。
お金が多くもらえるほど組織としてしっかりとしていて、いくらやり方が合理的であっても、個を捨てる必要がある。
逆に個が活かされるベンチャーは、海千山千でお金を出さずに夢ばかり見せる。
営利企業のジレンマだ。
そういう結論に350回目くらいに達した時、たまたま新しい仕事のオファーがあった。
給料据え置き、上司なし、より希少価値の高く得たいスキル、フレキシブルな労働時間、同い年のユニークな同期三人、福利厚生は公務員と同様、そして来年度の仕事や労働条件はすべて今年度の自分たちの頑張りで決まる。
ジレンマからの解放だ。
もうこんなチャンスは二度とないだろう。
そう思って即決した。
営利企業のジレンマは営利企業以外には関係がないのだ。
というわけで今、少し特殊なポジションでプロジェクト単位の仕事をしている。
プロジェクトのために作った職位なので、他に同じような人はいない。
出世争いもなければ、うるさく時間管理してくる上司もいない。
もちろんきちんとした成果物は出さないといけないが、それは望むところである。
仕事の安定?
そんなものは生ゴミと一緒に捨ててしまえ。
個性的な人間に囲まれ、予算も潤沢に与えられ、裁量権をもって伸び伸びと仕事ができる。
少なくとも今の自分の経験と年齢で、営利企業でこれをやるのは不可能だ。
だからこそ、と思う。
だからこそ、そういう営利企業があってもいいのかもしれない。
万人がそういう働き方を享受するのは難しいとしても、自分と自分の身の回りの人間くらいはなんとかなるだろう。
少人数の個性的なメンバーと、互いに尊重しあいながら各々が気の赴くままに好きなことをやれる。そんな環境で働ければ、素晴らしい。
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろをした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる
(茨木のり子「6月」)
今のポジションに満足しつつも、僕は美しい会社を作りたいと思っている。
いつになるかは分からないけど、必ずそれは成し遂げたい。
Q.E.D.
メコンの夜明け
ラオスに来ている。
バンコク経由で行く予定が、いきなりバンコクでの飛行機乗り換えにミスり、せっかくだからとタイのよく知らない街を経由して行こうとすると、本当によく分からない真っ暗な駅におろされ、野良犬の気配を全身に感じながら命からがらホテルにたどり着いた。
極めつけは、タイからラオスに向かうバスにタイとラオスの国境で置いていかれたことである。
イミグレと入国料(visaとはまた別)の支払いと入出国記入書類が別の場所に配置されており、ぐるぐるとそこを回っている間に他の乗客はそそくさと手続きを終えていた。
改札口のようなものを抜け、遠くに光る大型の車まで駆けていき、「お~危ない危ない」と思って乗り込もうとすると、それは自分が乗ってきたバスではないことに気付く。
まわりに他にバスらしきものの姿はない。
ASEAN 10ヵ国を制覇した記念すべき瞬間を祝福する余裕もなく、奇跡的に入国審査で必要かもしれないと思って持ってきたすべての荷物を手に、途方に暮れることとなった。
ラオスの首都、ヴィエンチェンに着いてからも、特に目的があって来たわけではないので、まあ暇なわけであるが、その一方で常に何かを考えているようだ。
今日の宿はどうするか、明日は何時のバスに乗るか、そもそもバス乗り場はどこか、ケータイの電波はどこで手に入れるか、どの容量プランが最適か、どの店で契約しても同じ値段なのか、そもそもどこに店があるのか、この先どこか心惹かれる目的地はあるか、どこで飯を食えば体調をキープできるか、プロテインは足りているか、あのおしゃれな三角の帽子はどこに行ったら買えるのか、価格はいくらまでなら妥協できるか等々。
その結果、街の中心部まで出かけ、その途中の両替屋のレートを頭に記憶し、たまたま発見したバスターミナルの様子をながめ、そういえば服がなかったことを思い出して買い、携帯屋が見つからないので、一服もかねておしゃれなカフェに入り、これからのto doリストに関する情報を集め、日本から急ぎの問い合わせが入っていることに気が付き、謝罪しながら高速で返信し、それ以外の人達にもついでに連絡し、再び歩き始め、simカードをゲットし、宿を確保し、ひと眠りしてからどうもネットでははっきりしないバスについての情報を足で集める、といったことをしている間に日が暮れていく。
一円もお金を稼いでいないからといって主婦がそれほど暇でないのと同様に、実は旅人もそれほど暇ではないのだ。
タクシー、タクシーと呼びかけてくるおっさんの相手をしているほど、余裕はないのだ。
考えることが意外と多い分、それを整理するために歩くことが苦でなくなるのかもしれない。
むしろ考えることがゼロになることが自分にとっての苦しみであり、そうなると多分、中国にいたときのように「早く帰りたい」となるのだろう。
自分はだいぶ孤高な方だと思うが、それでも日本にいるときは他の人の都合や気持ちをあれこれ考えた上で、自分にとっての必要事項、関心事項も同時に考えたりするので、結構負荷がかかっている。
その負荷がゼロにならない程度に、考えることを減らすことが、自分にとっての休息なのかもしれない。
いずれにせよ、東南アジアでこういったスタイルの旅をしている限り、何があろうと基本的にはなんとかなってしまうことに気が付いてしまった。
そういう意味で、ある意味終わりが見えた。
もういい加減、手に負えるトラブルだけを楽しむ旅はやめて、もっと計画的で大きな目標を持った旅か、計画しても自分のキャパを超えるトラブルが続出する旅に出なさい。
そう言われている気がして、ならない。
とことんやってみて、感覚的に答えがでたことに安堵するとともに、もうこんな感じで旅をすることはないのかな、という少しの寂しさもある。
まあ、でもまずはこの旅をしっかり終わらせることだ。
そのときにきっと、もっと確からしい答えが出ているだろうから。
Q.E.D.
星に願いを
淡路島に来ている。
何もない広大な土地と、仕事に追われることのない開放感から、半年前に北海道を旅した時のことを思い出した。
寒さに震えながら、満点の星空を眺めた時のことだ。
その時に少し書きかけていた文章を無造作に並び立ててみる。
好きなことがあって、嫌いなことがある。
聞きたい歌があって、聞きたくない歌がある。
心地よい風があって、不快な風がある。
なりたい自分がいて、そうでない自分がいる。
落ち着く街があって、騒々しい街がある。
会いたい人がいて、それほど会いたくない人がいる。
全部が全部、思い通りにはならない世の中だけど、ネガティブなことほど、あまり心に残らない。
不快な風も、騒動しい街も、最低なテストの結果も、大抵は忘れてしまう。
そういう意味で人間はよくできていると思う。
けれども、実はポジティブなこともネガティブなことと同じように、大抵は忘れてしまう気がするのだ。
北海道を旅していて、思った。
思い出は、人と共有して初めて思い出になるのだと。
音、匂い、質感、あるいは感情。
その時過ごした濃密な時間が、ふとした瞬間に蘇って、人生の一部となる。
そういうのを多分、世間では人生の充実というのだろう。
もちろん、そんな素晴らしいものはなかなか手に入らない。
むしろ色んな人と関われば、それだけ嫌な思いや悲しい感情を積み重ねることの方が多くなる。
逆に、ひとり遊びの充実やトラブルは話のネタになるし、精神的にも強くなれる。それはそれで人に評価されたり、興味を持ってもらったりするから、大切だ。
だから、一人で有意義な時間を過ごすことに対しては何の抵抗もない。
人と寄り添って生きる意味ってなんだろう、と時々考えてしまう。
僕は多分、自分と向き合う時間が人よりも多くて、それを許してくれる家族がいて、気の合う仲間がそれなりにいて、今現在心配事があまりない。
おそらく長い目で見ても楽しく幸せに生きていく自信はある。
やりたいことがいくらでも湧き出てくる気がする。
もちろん人並みに不安になったり、寂しかったりすることはあるけれど、そういったものとの付き合い方にあまりにも慣れすぎてしまった。
「強がる強さ」みたいな項目で序列をつけるなら、結構なトップエリートに属するのかもしれない。
もちろん人は一人で生きていけるわけではないけれど、自分の責任で生きる限りにおいては、何か一つ山を越えたような感覚がある。
でも、グチャグチャグチャグチャ考えて、三週ぐらい回って、やっぱり充実とか幸せって、人といてナンボじゃないかと思うのだ。
北の大地に行って、人間活動が生み出した余計なものを全部取っぱらって、ボーっとしてみて、やっぱりそうだと思ったのだ。
すごく稚拙な表現で恥ずかしけれど、なんだかんだでやっぱり人肌が恋しい。
寒いからとか、広いからとか、心が貧しいからとか、ニートだからというわけではなく、フラットに考えて、人肌が恋しい。
だから、これからも、多少なりとも無理をして、それなりに息抜きをして、人間らしい活動を継続していくんだと思う。
斜には構えるし、違うと思ったことははっきりと口にするし、相変わらず5人以上いる飲み会には参加しないだろうけれど、馬鹿にしていたり、嫌悪しているモノに対しても、ものは試しと言いながら、一度は接してみようと思う。
いいことを書いているようにも思うし、内容のない自意識過剰な文章のようにも思う。
ただ一つ言えることは、ここに書かれていることは、自分の中でまだコアな部分として残り続けているようだ、ということだ。
むしろ、この半年でさらにストレスや不満がなくなり、自由度が高まり、人肌が恋しくなった。
自分の弱さを少しは人に見せられるようになったし、人の弱さにもちょっとだけ寄り添うことができるようになった。
そして、最近ふと気づいたことがある。
好きな人はいるけど、嫌いな人はあまりいない。
それが今の僕だ。
Q.E.D.
シンガポールは興奮する街だった
シンガポールからの帰りの飛行機の中でこれを書いている。
会社を辞める予定が全くなかった今年の年明け、三連休だから値上がりするに違いないと思い、慌てて買ったそのマレーシア経由シンガポール行きの往復チケットは、ニートになってから何度となく日程変更の危機にさらされたが、なんとか生き延び今に至る。
なぜシンガポールなのかというと、ASEANの中でまだ訪れたことがない国であったのと、マレーシアと変わらない値段で行けそうな、いやむしろ何故か安く行ける場所だったということが大きい。
言ってしまえば、安上がりなスタンプラリー的なノリでしかなく、そこに何かを期待していたわけではない。
なんとなく、物価が高くてキレイな国なんだろう。
あるとしても、それぐらいのイメージだった。
しかし結論から言ってしまえば、近年行った国の中でフランス以来の感動を味わうことができた。
私はシンガポールという国に魅了されてしまった。
その理由を忘れないうちにここに記しておく。
英語が通じる
「当たり前やろ、ボケー」という話だが、最近あまりに英語が通じない国ばかりに行っていたので、ホッとした。
Singlishといわれる独特のなまりがあると聞いていたが、そこまでひどいものではなく、むしろその英語力の高さはさすがネイティブである、と純ジャパ目線で思ってしまった。フィリピンがネイティブだというのとは随分違う。
英語だけで言えば、欧米の国の人はだいたいペラペラなのだが、シンガポールのすごいところは、中国語もペラペラだということだ。
地下鉄とかの窓口に行くと、だいたい中国語で話しかけられ”Sorry”と苦笑いするハメになる。
そら発展するわな。
思った通りに事が進む
これも近年の旅がいささか困難極まるものばかりだった影響もあるが、あらゆる物事がうまくいく。
空港に降り立ち、両替屋にいけばそこでsimカードを売ってくれ、それがすぐに接続でき、フラフラ歩いていると地下鉄の駅に到着し、なんとなく乗っていると、目的地がそのライン上にあることを知る。
宿にいけば自転車がタダで借りれ、デポジットは日本円もオーケー。
都心の飯屋は閉まっても、宿に帰る道の途中に、値段も味もちょうどいい店が営業している。
偶然な部分もあるのだけれど、これはきっと国自体がすごく合理的な考え方をしていて、それが国民に浸透しているせいだと思う。
両替屋とsimカードがセットになるのは、そこそこいいアイデアだと思うが、さらにすごいと思ったのは、simカードを買った代金をその両替した金額から引いてくれることである。
多分日本だったら、一度両替した金額を全部現金に替えた後に、その中から再びsimカードを購入するというフローになる。
会計処理がごっちゃになるからだ。
でもそれは店側の勝手な都合で、客からすると一緒にまとめてやってくれた方が助かる。
書いていて自分でもメチャメチャ細かい話だと思うが、着いて一発目のこの何気ないやり取りで、シンガポールという国が気に入ってしまった。
大体どこの国に行ってもデポジットはその国の通貨しかダメだと言われ、帰る直前に割と纏まった額の現地通貨を返却されて困るということも、この国では交渉次第でなんとなる。
飯屋を夜遅くに発見できるのも、観光客狙いの安上がりな屋台は、夜遅くまでやっているに違いないという予想ができるからであり、「合理的に考えれば、こうなっているに違いない」ということがあらゆる場面において実現されている。
それがとても心地よかった。
多様性の集合体
人種のるつぼとは正にこのことだろう。
現地のシンガポール人自体が様々なルーツを持っている上に、駐在労働者や観光客などあらゆる人種が混ざっており、見ていて本当に面白い。
そして、それだけ多種多様ながらも「カオス」とはまた違った状態になっていることが感じられた。
これはもう本当に行ってみないと分からないのだが、ごちゃごちゃしていてもその中に一種の均衡が保たれているのだ。
あまり好きな言葉ではないが、その空間にいることに、そしてその未来を想像することに”ワクワク”してしまった。
そしてこの国に来て、全てが中途半端な東京にますます魅力を感じなくなってしまった。
ASEAN諸国をフラフラしている中で、一つ気がついた事がある。
それは、自分の日本人としてのアイデンティティはあまりないものの、アジア人としてのアイデンティティは結構あるかもしれないということだ。
アメリカは依然としてアメリカだが、シンガポールやその他のアジア諸国は自分にとって一地方都市にすぎない。
そんな感覚だ。
「シンガポール エンジニア」「シンガポール フリーランス」とかいうクエリをgoogle先生に投げまくりながら、シンガポールだけワーホリが25歳までだと知り、今なぜかそわそわし、妙に落ち着かない気分になっている。
Q.E.D.
日の出を待ち、日の出と共に駆けてみた
明けましておめでとうございます。
今年も良い一年に。
していきましょう。
年末に昨年のまとめ的なものを書けたら書こうかなと思っていたが、バタバタとしていて書けなかった。
色々原因はあったが、一番やばかったのは年賀状。
クロスワードパズルを自分で作ってその答えが自分の作った年賀状サイトのURLになっているというアイデアまではよかったが、それは詰まるところ自分でサイトを作らないといけないということでもあり…。
年賀状そのものは既に送ってしまっているので、元旦の朝に友人達がパズルを解き終えるまでにサイトを完成させないといけないというプレッシャーと戦うハメになった。
ネタバレになるので、当然「手伝って」とも言えないし、弱音も吐けない。
結局年明けの朝5時まで作業していたのは、我ながらアホである。
まあでも、何だかんだで一応仕上がって、気持ちの良い年始を迎えることができ、ほっとしている。
去年は仕事や居住地などがガラっと変わり、海外も放浪し、色々と動きのあった一年だったが、今年もかなり色々と動きがありそうで楽しみである。
何がどうなるのかは当の自分もよくわかっていないという無責任感であるが、それだけまわりの人間に依存する部分も多いということでもあろう。
肩肘張りすぎず、焦らずひがまず、いつも通り飄々と日々を過ごせたらと思う。
ちなみに正月は地元の友人達と集まり、ゲームセンターに行き、ダーツに行き、飲み会をして、ゲームセンターに行き、温泉に行き、最後に自転車を借りて空港まで日の出を見に行くという高校生のような一日を過ごした。
余計な気遣いもなく、特に積もる話もなく、でも一緒に馬鹿なことをして屈託なく笑える仲間がいることは、やっぱりいいことですね。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
東京にいったい何があるというんですか?
東京で暮らし始めて1ヶ月が経つ。
新しい会社、おそろしく高い家、復活した人間関係。
目が回るぐらい必死というわけでもなかったのだろうけれど、時が経つのは結構早い。
それこそ、東南アジアの3倍速くらいの感覚だ。
正月まであっという間かも、と思い年賀状の心配をし始めていたが、先日ちょっとした用事で帰省することになり、夜行バスで東京を出発したその日の夜に新幹線で帰るという暴挙にでた。
暴挙の割には全てが順調で、感覚が研ぎ澄まされていて、感じることも多かった。
そして、久々に「書きたく」なった。
だから、とりあえず今書きたいことだけ書く。
東京とは何だろう。
未だに僕にはそのはっきりとした解が見つからない。
面倒なので、その問いと、わざと向き合わないようにしているのかもしれない。
そもそも僕は東京が好きではない。
訳の分からない海外の国に行きたいと思っても、東京には行きたいと思わないし、フィリピンの満員電車は許せても、東京の満員電車は許せない。オチのない話を聞くぐらいだったら、イスラミックなお経を聞いている方が100倍マシだ。
食わず嫌いや偏見ではなくて、事あるごとに心の底からそう感じてきたという自負がある。
多少は「みんなと同じ方向を向きたくない」という斜に構えたい願望があるのかもしれないが、それを差し引いても余りある負の印象を持っていた。
東京に行きたくて行けないのは問題だけど、東京に行きたくなくて行かない場合は何も問題はない。
だから特に困らなかった。
けれども、そういう僕は世間ではマイノリティで、大抵みんな東京に行きたがる。
だから「とりあえず東京っしょ」という人達には、純粋に聞いてみたいと思っていた。
東京にいったい何があるというんですか?
と。
けれども今、僕は東京にいる。
東京嫌いの価値観とかスタンスはそんなに変わっていない状態で、しれっと何事もなかったかのように東京で暮らしている。
なんなら、生活自体を楽しんでいる節もある。
不思議だ。
中学とか高校で昨日まで険悪だった奴らが翌日、急に仲良くし始めて「あれ、お前ら喧嘩してたんじゃなかったっけ?」と思うあの感じだ。
結論から言おう。
やっぱり東京には何もない。
けれども何もない良さがあるのだと今は思う。
神戸に帰って少し物足りなく感じた。
居心地が悪いとまでは言わないけれど、何かしらの違和感があった。
言語化するのは少し難しい感覚だけど、あえて言うなら「自分の居場所をここだと決め切った感」であろうか。
それを街全体が醸し出していた。
もちろんそれは悪いことではない。むしろ、素晴らしいことだ。
やっぱり最後は神戸に住みたいなと思ったし、これ以上求めるものは何もない街だと思う。
でも今の自分には、多分まだ早いみたいだ。
もう一度言おう。
東京には何もない。
何もないけれど、その何かを追い求めている時の美しさみたいなものは、もしかすればあるんじゃなかろうか。
それを感じられるようになった時が東京を離れる時だ。
認めよう。僕は商社に興味があって、起業がしたい
僕は今、大学時代住み慣れた、京都にあるボロボロの一軒家に滞在しているわけだが、とても心地がいい。
やたらと広い感じとか、ちょっと寒い感じとか、物音一つしない感じとか、銭湯までトボトボ出かける感じとか。
何より「今京都にいるんだ」という実感がいい。
色んな人に再会し、色んな下らない話を披露し、色んな悩みに共感し、少しだけビジネスの話をし、京都の各地を駆け回る。
うむ、人間らしくて良い。
そして気づいた。
こんな感じの生活がしたい。
この家を拠点に、時間の制約なく、気の赴くままに出かける。
少しだけ真面目な話をして、大半は下らない話にあてる。
見たい景色を見る。
食べたいものを食べる。
そんな暮らしがいい。
そして理解した。
それを世間では起業というのだ。
大学から感じていたことだが、僕はすぐ話をビジネスモデルに結びつけたりとか、やたら世界を変えたいという熱を持っている人達があまり好きではない。
おそらく根本的に合わないので、できるだけ距離を置くようにしている。
決して悪い人達ではないし、むしろ僕なんかより人間できていると思うけど、確実にベクトルが違うと感じるのだ。
ちょっと難しく言うと、彼らの考え方はトップダウン的で、まず莫大な理想を掲げてそこに酔いしれ、それをモチベーションとして頑張る。
一方で、僕はどちらかと言うとボトムアップ寄りの考え方だ。
本質的なことに集中し、正しい努力を積み重ねれば、それは商売としても大きな価値になるし、世の中へのインパクトにもつながる。
何だかんだベースとなる能力は必要だし、それを得るための地道な積み重ねこそが美徳だと思っている。モチベーションは純粋な反骨精神だ。
古臭いと言えば、古臭い。
どちらが正しくて、どちらが間違っているという議論をするつもりはない。
結果がすべてと言えばそれまでだ。
けれども、とにかくそういった考え方の違いがあり、その違いが僕のアイデンティティでもあった。
僕が人よりブレにくい要因の一つであったし、反骨精神の源泉にもなっていた。
そして、その自分と対極にいると思っていた彼らが一様に口にする単語。
それが「起業」ないしは「起業したい」だったのだ。
だから今まで僕は必要以上にその言葉を使うことを避けてきたし、事あるごとに「別に起業がしたいわけじゃないんだけど」と予防線を張り続けてきた。
そうすることで自分のアイデンティティを守ってきた。
けれども、認めよう。
今このタイミングが適切ではないかもしれないけれど、認めよう。
僕は、彼らと同じく、起業をしたいと思っている。
根本的な部分で色々違いはあるかもしれないけれど、起業したいという思いに関しては何も変わらない。
世の中をもし2つに分けるとしたら、確実に僕はそっち側だ。
そのことに気がついた。
そして、もう一つ最近気づいたことがある。
僕は商社のビジネスが好きだ。
黒木亮の「エネルギー」という本を読んで、実は商社って面白いんじゃないか、と思い始めたのがきっかけだけど、それがミャンマーに行って加速した。
未知なる環境に行き、様々な利害関係者を結びつけ、お互いの妥協できる範囲を探る。
常識的に考えて無理だ、頭がおかしいと思われることでも、案外やってみると上手くいき、そのスリルと達成感が半端ではない。
どうしても日本人の”商社”に対する目とか、とりあえず商社に行きたい人達とか、そのカルチャーとかが好きになれなくて、就職活動中もかけらも関心を示さなかったけど、今になって楽しそうだと思う。
そして向いていると思う。
相変わらず商社を取り巻く環境については好きになれないし、組織の為に頑張るという価値観は持てないと思うけど、色んなものをとっぱらってフラットな目で見ると、商社の仕事は本質的で面白い。
それはどうやら認めないといけないようだ。
商社なんてミーハーの塊でやりたいことのない人達の集まりだと思っていたけれど、中には本当に色々考えて商社という選択をした人もいるのかもしれない。
最近起こったこの二つの発見が将来結びつくのかどうかは、分からない。
けれども自分とは全く違う人達と案外近い位置に自分はいる、ということに気づいたのは大きな成長だ。
社会に出たからか、世界を旅しまくったからかは分からないが、いい意味で少し丸くなったように思う。
物事を先入観なしで見れるようになりつつあると思う。
でもやっぱり、僕のアイデンティティは少なからずまだ京都に残っていて、バランスのとれたカッコイイ大人になるのは、まだ無理なようだ。
「俺はただ文句を言いたいだけだ」と言い放ち、清々しいまでにあらゆる不満を口にする友人や、趣味のレベルを超えたITスキルを備えた友人や、鉄ヲタすぎて家に運転台を作ってしまったりする友人がいる。
どんな無茶を言っても「オッケー」の一言が返ってくる先輩がいて、どんな無茶を言っても嫌々引き受けてくれる後輩がいる。
バカみたいにニッチで深い次元で悩みを共有し、一緒にグダグダと時間を過ごせる優秀な同級生たちがいる。
僕は何かに追われず、自分の時間を生きている彼らが最高に好きだ。
世間の価値観など物ともせず、自分に嘘をつかず生きている彼らが最高に好きだ。
モラトリアムだから、と言ってしまえばそれまでだが、できればずっとこのままでいたい。
もし、それを可能にするために、僕が社長になる必要があるのなら、喜んで引き受けよう。
もし、それを実現するために、リスクを取る必要があるのなら、それをチャンスと捉えよう。
それぐらいの覚悟はできた。
そのために、ひとまず東京で頑張る。
Viva 京都
Q.E.D.